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舒明天皇陵・鏡大王陵

お昼は大神神社の境内にある森正というところで、三輪そうめんを食べました。
長麺ということで、普通の二倍ほどの長さです。
海老や、オクラなどのトッピングが乗った冷たい麺です。
めっちゃ美味しい。
お腹も満足して元気いっぱいです。





さて、後半戦の始まりです。
ここからは車で、舒明天皇陵、鏡大王陵、大伴皇女陵、そして、倉梯へいって崇峻天皇陵と続きます。




まずは、舒明天皇陵です。
舒明天皇の異名は田村皇子(タムラノミコ)、または息長足日広額尊(オキナガタラシヒヒロヌカノミコト)といいます。



父は、押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)で、
皇后は、宝皇女(タカラヒメ:皇極天皇・斉明天皇)です。



そして、皇子・皇女は、古人大兄皇子、葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(天武天皇)




こう聞けば、歴史好きの人にはたまらないキャスティングですよね。
時代の大きな曲がり角を作ったメンバーが目白押し。




推古天皇崩御の跡、山背大兄皇子(聖徳太子と刀自古郎女との皇子)と皇位継承権を争うが、蘇我蝦夷・入鹿親子の後押しの中即位します。




しかし彼は蘇我の血統からは離れた天皇であった為、影響力を行使しにくいと考えた蘇我一族は、蘇我稲目の血を引く皇女・宝皇女を皇后に付けるのです。
後の皇極天皇(斉明天皇)です。




彼らの間には、二人の息子(後の天智天皇,天武天皇)と一人の娘(後の孝徳天皇妃)が誕生しました。




日本書紀によれば、舒明天皇の在位中に初めて遣唐使が派遣されたり(犬上御田鍬を唐に派遣)、学問僧が帰国したりして、(留学生高向玄理、南淵請安帰国)、聖徳太子が進めた仏教文化移入が大い拡大した時代です。






舒明天皇陵



どんな思いでこの時代を駆け抜けていったのでしょうか。
舒明天皇を思いながら階段を上りました。




舒明天皇陵




舒明天皇陵の少し先に鏡大王陵があります。
鏡大王は始めは中大兄皇子の恋人でしたが後に藤原鎌足の正妻になります。
額田王の姉との説もあります。



鏡大王





このあと大伴皇女(欽明天皇皇女)陵へ行ってから、この地を後にして倉梯へと向かいました。




車で10分くらいで倉梯に着きました。
崇峻天皇陵です。






崇俊天皇陵



別名泊瀬部皇子(ハツセベオウジ)、長谷部若雀尊
父親は 欽明天皇(キンメイテンノウ) 母親は 蘇我小姉君(ソガノオアネノキミ)




蘇我馬子の命により東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)という人物に暗殺された不運な天皇です。



遺骸は即日「倉橋岡陵」に葬られたというから御陵はすでに出来上がっていた事になります。





治定は明治22年。金福寺跡にあった径約35mの古墳らしきものを無理に充てたらしいのです。




本来の崇峻陵は赤坂天王山古墳というのが定説のようです。
また、藤の木古墳という説もあります。



天皇になったものの傀儡だったとも言われています。
それで、倉梯のような辺鄙な田舎に追いやられたのだと本に書いてあったのですが、どのくらい辺鄙なところなのかと私はいつも気になっていました。




実際に来てみて本当に辺鄙なところだと感じました。
今の車のある時代でこそこの辺りで生活することは可能ですが、当時は山の中の山の中。
政治の中心地から遠く離れ、本当に寂しく辛い毎日だったのではないでしょうか。



妃の大伴小手子(オオトモノコテコ)のことを考えると、転勤族である私は自分のことのように寂しさが伝わってくるようでした。




この御稜さんの真横に川が流れていて小さな滝があります。
その滝の音が寂しさをさらに掻き立てます。




後ろ髪を引かれながら倉梯をあとにして、最終目的の檜原神社に再度向かいました。







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